札幌の歴史

札幌の歴史
札幌市は、北海道開拓の拠点として発展し続け、現在では人口190万人を超え(北海道の人口の約4割)、東京、横浜、大阪、名古屋に次いで全国5番目の人口規模となっています。

<地名の由来>
札幌の名の語源については、アイヌ語の「サリ・ポロ・ペッ」(その葦原が・広大な・川)とする説と「サッ・ポロ・ペッ」(乾いた・大きな・川)とする説などがあります

<札幌市の誕生秘話>
現在の整然とした札幌の街造りを計画した先人として歴史に名を留めているのが、島 義勇(しまよしたけ)です。
島 義勇は、1822年(文政5年)佐賀藩士島市郎右衛門の長男として佐賀に生まれました。

1869年(明治2年)開拓使が設置され、その年の9月20日には東久世二代目代長官と共に品川から函館に渡りました。開拓使判官としての島 義勇は、札幌の街造りに壮大な計画を練り溢れる情熱を持って実行に着手しましたが、そのためには莫大な費用が必要であり、費用の調達を巡って政府と対立した結果翌年3月志半ばにして札幌を去ることとなりました。

札幌の街造りはその後継続されることになりましたが、その構想は随所に継承されています。

札幌市役所のロビーに島義勇の像が建立されています。この台座には、島が札幌開発を着手するにあたつて、洋々たる前途にたいし[他日五州第一の都]と詠んだ詩が刻まれています。

島義勇は札幌の町造りを始めるに当たり、現在の南1条通を創成川(大友堀)に直交させこれを基礎と定めました。札幌の基点となったのは創成橋あたりです。

現在、開拓判官島義勇が札幌の街造りの基点を定めた場所を残そうと建立されたのが、場所は南1条西1丁目の創成橋の近くです。
この碑は、関敏の制作で、高さ1,4メートル、スエーデン産の黒御影石を使い球状の上に東西南北を表徴する様にモチーフにされています。

台座は当時の札幌市長原田与作の書で次の様に書かれています。[この地は、銭函から千歳に抜ける道と藻岩山麓を通り篠路に行く道路の交差点に当たり、今日の札幌市はこの付近を基点として発達しました。



<気候>
札幌市の気候は日本海型気候で、夏はさわやか、冬は積雪寒冷を特徴としており、四季の移り変わりが鮮明です。

4月から6月は晴天の日が多く、さわやかな緑に包まれ、花が集中して咲き乱れます。

6月下旬から日中暑い日もありますが、本州地方のような梅雨は見られません。7月、8月は平均気温が20℃を超える盛夏となります。

9月に入るとひと雨ごとに気温が低下し、雨量も多くなります。10月には紅葉が始まり、最低気温が0℃近くまで下がることもあります。

10月下旬には初雪が見られ、12月上旬には根雪となります。12月から2月の冬季は、最深積雪は約1m、ひと冬の降雪量は約5mにも達します。

3月に入ると、寒気も緩み始め、春分のころには平均気温が0℃を超え、4月上旬には根雪の終日を迎えます。

札幌の年平均気温はおよそ8.9℃、年総降水量はおよそ1,100mmです。


<札幌へのアクセス>
北海道外からのアクセスは航空路の利用が一般的です。札幌の空の玄関口・新千歳空港は、東京(羽田・成田)、名古屋、大阪(伊丹・関西)をはじめ全国各地の空港と結ばれています。


◆関連リンク
→【各名所】北海道神宮
→北海道開拓の村
→北海道開拓記念館

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